昭和53年04月07日 朝の御理解 光昭先生



 御理解 第54節
 「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」

 いわゆる今日は、親先生を始め御信者さん方が御本部に御参拝さして頂いとりますので。おかげであのう私があのう4時の御祈念をお手代わりさして頂いて、今日こうやって御理解まであのうさして頂いておるわけですけども。今日あのうここの4時の御祈念をこうさして頂きながらあのう、頂くんですけどもあのう何と言いますかあのう、福助と言うあのう福助足袋ですね、あのう福助と言う事を頂くんです。で僕はこの事を頂いてもうどこからかものすごくあのう元気が出てきたと言うか。
 あのう安心かもう本当にあのうもう、今日はもう親先生がおられなくて安心だぁっていうものをこう感じた訳ですね。その福助と言うのはいわゆる福、福が助けると言う様に書いてあるですね。でそのう福と言うのはもう間違いなく親先生と頂かして頂くんですけども。そのう親先生がもう助けて下さるもうどう言う事があっても。いわゆる親先生のそういうおかばいの中での、あの今日の一日いわゆるお留守なんだと言う事を感じさして頂いて。なんかもう恐ろしい事もないし。
 それこそ今日のここを開かして頂いた時に、あのうちょうど開かして頂いたらこの小さな54というのを先に頂いたんですよ。そしてこう横を見さして頂いたら、ちょうど54ページにこう54節があると言うのにびっくりさせて頂いて、で又いよいよ御理解を読まして頂いて、ほんとあの心配する心とかいわゆる不安な心というのが、あのうそう言う確信を持ってあのう安心の心と言うのは、そういう確信を持っていただかして頂ければ、そういう不安なものもないし安心の心が頂けるんだと言うものを。
 今日感じさせて頂きながらまぁこうやってお話させて頂いておるんですけども。ですからもうお話でも、その何を今日は話そうかとか、あのうぜんぜんこうあのう不安でなくこう言葉が今こう出て来てるんだと思うんですけども。まぁ本当にあのう信心で言うあのうこの安心の心と言うのは、まぁそういうあのう私達の安心の心と言うのは本当のにあのう、まぁ倒れころびの安心の心なんですけれども、そう言う親先生のバックがあるとかあのう親先生が本当にあのうそのうおかばいがあるんだというものを。
 このう御祈念中にこうあのうまぁこう頂かせて頂くと、もう本当に落ち着いて今日あのう御結界奉仕が出来るなぁ、親先生のお手代わりが出来るなぁっというものをこう感じさせて頂きですね。であのうそしてまたあのう何てですかねあのう、もう一つ頂くのがあのう古賀信司と頂くんですね。これはあのうどう言う事かなと思わせて、これは私なりの解釈ですけれども、あのうこういわゆる古賀の古とそして古いそしてあのう賀び賀よろこびの賀と言う字です、そして新しい字と書かれとる訳ですけれども。
 あのう本当に古いこう古いものでも、あのう例えば今日僕がこうやってあのうここで親先生のお手代わりとさして頂いて、本当にもう良くここで親先生が言われます、もう朝もう目を覚まさせて頂いたら、もう本当にこう新しい血がばぁっとこう入り入れ替わる様な、何かそう言うものを頂くと言われる様に、何かその喜びの心というのが、もうほんとに古いものの中から新しいものにですね、あのう変われるほどしのものなんだというものを、今日はあのう。確かにお広前あのう進まして頂きながらそれを感じるし。
 まぁ御祈念をこうさして頂きながらこのあの古賀信司と言う事を頂かして頂いて、あぁほんとだなぁあのう賀びの心と言うのは、そういう古いものから新しいものにこうあのう、昨日、昨日の事はもう本当にもう古いんですけれど、古い事としてそして新しい今日頂いて行く、その新しいものを頂くためにはその賀びと言うのが、やっぱり朝一番に頂かして頂かなければ、どうしてもそのう新しいものは生まれてこないと言う。あのう頂けないと言うものをですもう感じさして頂く訳ですけども。
 そしてあのう今日なんか不思議にもうここ辺が、親先生の本当のおかばいの中だなと思うですけど、次から次から今日はもうあのう、お知らせなりそのう御神願なりというか、頂かして頂いて行くんですけども、もう一つこれはあのうまだはっきりこの事は分らんのですけれども、ちょうどあのうここのお広前とこのお取次ぎの場と、このう御神前の色が違うんですね。ここのお広前が赤あかでここがあのう緑なのそして、あのう御神前が紫のところを頂く訳ですけども。これもまぁ私なりの解釈をさして頂くと。
 いわゆるあのうお広前と言うのは、そう言うまぁ一つのいわゆる情熱ととでも申しますか、あのう有り難い御教えを頂いて本当にこう燃えさせて頂く。そしてあのういわゆる緑と言うのは、生き生きした心とか言う事で使われますけれども、その生き生きした心というものが、あのうここのお取次ぎの場で頂かして頂いて、そしてもういよいよあのうもし神様に向かった時に、御神前にこう額ずかして頂いた時に、本当にもう安心のおかげと言うのがあのうこう頂けるなぁというものを。
 まぁこの位の事じゃないんでしょうけれども、そう言う風に今日はあのう色でこうあのう頂かして頂いた訳ですけども。本当はあのうまぁここは私達の信心と言うのが、親先生がおられる時には、本当にどれほどしの信心かというのをこう感じ取れにくい訳ですね。で僕はそういう意味であのう、例えば今日は親先生がおられない、あのう昨日のいわゆる夕方一時の過ぎぐらい、その後にまた若先生が夕方まで出発されるまでおられるから、まだぁあのう安心しておけれるというか。
 何かまだ自分より上の人がおるとどうしてもこう、安心が出来る訳ですよ。いよいよ若先生も出られて、まぁ周りを見渡してもまぁ仕方なく私が「長」的形になると、この合楽教会の本当に今「長」として今おると言う事になればもういよいよこう、自分の信心をこう本当に見つめ直さして頂かな行かんと言う様な感じをさせて頂ける訳ですけども。まぁそういう意味であのう親先生がおられない今の合楽、今のこのお広前この時にあのう自分の信心のあのう、なんですかね自分の信心の度合いとでも申しますか。
 自分の信心がこれくらいの信心だと言うのが、あのうはっきりあのう浮き彫りに出て来るような感じをさして頂く訳ですね。あのうまぁこういう時にはどっちかと言うと、昔の私でしたら何かこう浮き足だってあのう、こう跳ねども今日は親先生も居られないし、今日はわしが一番「長」だからどう言う事でも出来るし。まぁ一日今日楽しく過ごそうとかまぁそう言う様な、まぁ甘い心が出とったと思うんですけども。いよいよあのう本当にそこのところを親先生のおられない。
 また若先生のそういうおられない間、あのう私がこうやってお手代わりをさして頂く者として、今日一日をあのうまた親先生お帰りになるまでをあのう努めさして頂く、そのためには本当にいよいよこの安心のとでも申しますか、私ではすべてをこう安心さして頂けれる、受け方をさして行かなければ安心してこのう、合楽のこのう時とでも申しますか、この時間が過ぎて行かないと思う訳ですね。
 まぁ今日のこの54節をあのう頂かして頂いて本当にこう間違いないなと、親先生のそのう福助ではありませんけれども。本当に親先生があのう私がそれこそもう言うた言葉を、そのままあのう助けてて下さる。おかばいをして下さると思うたらもう本当に私のような信心でも、あのう私のような小さな信心でもこう安心の頂けれる道と言うか、そう言うのを今日感じさして頂いて。
 まぁ安心して今日御結界に座らせて頂こう、安心して親先生のお手代わり若先生のお手代わりを、あのうさして頂こうという心にならして頂いて、まぁ少しこう別に寒いんじゃないんですけれども、その事をずっと思わせて頂いたら。もうこう何んか震えとでももいいちょですか感動的なあのうこうあのう震えを頂いて、あのう今座らして頂いとる訳ですけれども、まぁお互いにあのうこのうこういう機会と言うのは本当に滅多にありませんし、いよいよあのう自分の信心をこういう時に自分の信心はこの位いの信心。
 親先生をこれくらいしかまだあのう頂いていない。親先生をこれだけしかあのう信じていないというものを、感じさせて頂く時期。そういうひとつのま私達教師にとってはま丁度あのう、中間テストとか期末テストみたいなものと頂かして頂いていいんじゃないかと思うぐらい、あのう大事なあのう時期大事な時だと頂かして頂いて、今日明日あのう親先生のお帰りになるまでを大事に過ごさせて頂きたいと思わせて頂きます。
   有り難うございます。